第1回 教養とは何か!?

講義

教養とは何か?

この講義は「音と音楽をめぐる科学と教養」という名前です。「音楽」という言葉に惹かれて、この講義を選んだ人が多いと思います。確かにこの講義では、音や音楽について話をします。

あるいは、「科学」という言葉に注目した人もいるでしょう。これも、この講義のユニークな特徴です。多くのみなさんは、これまで音楽を、数学や物理や心理学などと結びつけて考えたことは、ほとんどなかったでしょう。こういった新しい考え方や知識に触れるのは、知的に楽しいことです。

音楽と科学。この二つは、この講義の大きな柱です。しかし、私が本当に伝えたいことは、もっと別にあります。裏のそして真のミッションは、皆さんに「教養」について考えてもらうことです。

しかし、教養とは何でしょう。色々な考え方があり、正解はひとつとは思いませんが、私の見解では、下の①から③まで達している状態です。

① 物事について、よく知っている。
② 自分の知らないことについて、謙虚に想像できる(無知の知)。
③ 他者に敬意(レスペクト)を持つ。

もう少し詳しく言うと、①が②につながり、②が③につながり、すると敬意をもって誰からも学ぶという姿勢から③が①につながるので、①→②→③→①→・・・という無限サイクルが完成します。この境地に達しているのが教養のある人だと、私は思います。

多くの大学一年生は、レベル1が教養だと思っているようです。しかし、それは教養への遥かなる道のりの、最初の一歩に過ぎないことがわかるでしょう。

しかし、今の皆さんの環境は、教養のマスターが難しい状況です。というのは、インターネットの普及によって、社会が情報過多になったからです。その結果、逆説的に、みなさんには恐ろしいほどの情報遮断がおこっています。そして、そのことに、全く気付いていません。教養を得る観点からすると、とても危険です。

今はまだ、私が何を言っているのか、よく分からないと思います。しかし、講義がすべて終わったあとでは、この事がよく納得できるようになっているはずです。

過去受講生
過去受講生

この講義を通して様々なことを知っているというだけでなく、些細なことにも疑問を持ち、立ち止まって考え、自分なりの答えを持つ人になりたいと思った。普段人の話を聞く時の意識が変わったように自分で実感している。

過去受講生
過去受講生

自分の知らないことを想像して慮る余裕をもって、生きていきたいと思いました。

HPの使い方

この講義では、毎週、受講生のみなさんから、疑問や質問を提出してもらいます。それに対して、私がこのHPで回答をします。同じ講義を受けた他の学生が、どのように(自分とは異なる)理解をし疑問を持ったのかを知るのは、講義そのもの以上に勉強になります。

過去受講生
過去受講生

同じ講義を受けても疑問に思うところや、面白いなと思うところが様々で、とても勉強になった。

過去受講生
過去受講生

各回の終わりに書く小レポートの質問がサイトにあがるのもとても楽しみで、他の人の視点に驚いたり羨ましくなったりしました。

過去受講生
過去受講生

こんなに鋭い質問がでるんだ、私も頑張ろう、という風にモチベーションを保つことができた。

素晴らしいコメントや質問には、出席点にボーナス点を追加することがあります。

良い質問を考えることは、とても大変です。しかし、大変だからこそ、自分の血となり肉となります。楽なこと、すなわち脳に負荷のかからない簡単なことをしても、それは、あなたがすでに持っている能力を消費しているにすぎません。負荷のかかる難しいことをしてこそ初めて、脳に新しい回路が作られて、能力が上がるのです。筋トレと同じ、No pain, No gain の法則です。

頑張ってください。

Q&A

※ Q&Aは、今年のものと過去のものが混在しています。

今週のピックアップ!

ツイッターやインスタグラム、Google検索等は使用者によっておすすめされる情報や検索結果が異なると聞きますが、そのアルゴリズムと自分の気になる情報にばかり目が行ってしまうという人間の性質は良くも悪くも相性が良いと考えました。自分に都合のいい意見にばかり目が行く人間が、自分に都合のいい情報を勧める電子媒体を好んで使えば、仮に、自分の考えが間違っていても、自分に都合の悪い情報に出会いにくく、出会っても目を背ければ、その間違いに気づくことは容易ではないと思います。そのような社会だからこそ、他者には見えて、自分には見えていないものを知るために他者との対話が必要なのかもしれないと考えました。


そうですね。情報の選択を人工知能にまかせて“楽をする”ことは、No pain No gainの原則からしても、学習や成長の機会を失っていると言えます。

私は受講する前までは、「音と音楽をめぐる科学と教養」とは、音楽に関係していて、高校みたいな音楽を理論的に説明していくものなのかと勝手に解釈をしていました。しかしそれが、自分が都合の良いように情報の取捨選択をしているだけなのだと今回の講義に参加したことで理解することができました。


仮に新聞やニュースを読んだとしても、このような落とし穴にはまっている可能性は、常にあります。ではどうしたら良いのだろうと途方に暮れると思いますが、まずは、自分の読解に、無自覚の限界があることを自覚するのが出発点です。

大学進学と同時に一人暮らしを始めいざ大学生活を送ってみると、すべて自分で決めなくてはならず自由であることに不安と恐怖を抱いています。

自分がいる世間(空気)から社会に飛び出すために、我々大学生が実践可能な最初の一歩とは具体的にどのような行動でしょうか。


一人暮らしは社会人への第一歩です。新しい人と出会うこと、新しいことを始めること、そして、本をたくさん読むことで、社会へのつながりが生まれてきます。

2018年に仙台であった電車での席取りは,当時ちょうど乗り合わせた例えば仕事で疲労のたまっているにもかかわらず座席を利用できなかった社会人は,席取りを行った相手に対して敬意を持つべきなのだろうか。私がもしその社会人であったならば,敬意を持つということは極めて困難であるように思う。


敬意を持つと言うのは、尊敬するとか、無条件に尊いものと認めるとかいう意味ではありません。自分に自分の行動原理があるように、相手にも相手の行動原理があります。それは一体何なのだろうと想像しようとする態度が、敬意を持つということです。このような姿勢があれば、きちんとコミュニケーションが成り立ちます。

世の中には『空気を読みすぎる人』逆に『空気を読めない人』がいる。
・空気を読みすぎる=教養がない
・空気が読めない=教養がある
ではないと思うが、それは正しいか。『空気を読めない人』と『空気と社会の壁を教養で突破できる人』の違いは何か。


空気は読めた方が良いです。そのうえで、読んだ空気にとらわれるかどうか、いざとなったらその空気を無視する覚悟や自信があるか、ということが問われています。

卓球はボールの当たった瞬間の音で色々な球質に変化するとても面白い球技です!


なるほど! こうした新しい視点をもらえるのが、この講義をしていて楽しいところです。

さっそく参考図書を、注文しました、図書館で借りました、などなど


行動の速さが素晴らしいですね。あとで・・・と思っていると、結局やらないことも多いですよね。なぜなら、次から次へと新しいことがやってきて、そちらに気を取られているうちに忘れてしまうからです。まず動く。これ大事です。

そのほかの質問やコメント

教養について

「教養=知識」と思っていました

無知の知や他者への敬意を持つことが教養に繋がるとはあまり考えたことがありませんでした。しかし、改めて考えてみると、私が教養があると感じた人の殆どは、謙虚で正直である事に気づき、教養のある人になる難しさを思い知らされました。特に私は賢く思われたいと思うばかりに知ったかぶりをしがちなので無知の知を大切にしていきたいです。

今日の講義を聞いて、今まで教養科目の授業をいくつも受けてきたが、面白いと思ったり新たなことを知れたと思ったりするだけで満足し、それについてさらに考えるという事をあまりしてこなかったなと思った。私は講義の後の「質問はあるか」という質問に答えるのが苦手なのだが、理由はこういう事かと思った。

「教養のある人間になりたい」と以前から思っていたが、今日、教養を身につける過程をお聞きして、 教養は一朝一夕に身につくものではないという当たり前のことに立ち返る姿勢が、私には欠けているということに気づかされた。

そして、目標を「教養のある人間になる」から「学び続け、教養を深めていく」に変えた。「教養」には魅力的な響きがあるが、 その響きに惑わされず、日々の読書や授業、人との関わりを大切に、地道に進んでいこうと思い出させていただいた。

まずは知らないことが恥ずかしいと思うことのある自分自身の意識を変え、大学生活4年間で様々な知識を、多くの友人、そして先生方から沢山吸収していきたいです。

「NO PAIN  NO GAIN」という言葉が心に残った。自分と同じような意見の人と話したり、共感し合えたりすることはとても楽しく、安心できる。また、インターネットでも同じように見たいものを見ていた方が心が乱されなくて済み、楽しい時間が過ごせると思う。しかし、今回の講義を聞いて、それでは自分は成長しないと気付いた。

空気(世間)と社会

スライドでは「社会」の中に個人が所属する「世間」は一つだけでしたが、個人がもつ「世間」はいくつもありその外側に一つの「社会」があるという認識で正しいでしょうか。私は「世間」を一つのコミュニティと捉えました。

逆説的な情報遮断

私に新聞を読むように進める母親は、「無知は恐ろしい」と度々口にします。私はまだその感覚が身をもって実感できていないのですが、その元を辿ると、「どうせ皆分かっていないだろう」という漠然とした決めつけと安心感が根底にあることに気付きました。これこそが、同じ空気間の中で生きているということであり、社会人の母親との違いだと危機感を覚えました。

私は、メディアに優劣というものは無く、ただそれぞれに違った長所・短所があるだけだと考えています。重要なのはそれぞれのメディアの特性を理解し、自分のリテラシーに合ったものを利用すること、そして日頃からリテラシーを高めていくことだと思います。

SNSを見ていると何かしら憤らずにはいられない人たちが沢山いますが、なぜだろうと思っていました。ただ今まで声を上げなかった人が次々に主義主張をいえる環境になったから憤りが顕在化しただけなのかも、と思っていました。しかしまたそういった人たちも情報過多な中で選択的露出をしており、自分に不都合な情報が目に入った瞬間フェイクであろうとギャグであろうと滅多刺しにして淘汰しないと自我を保てないと思い込むほど余裕がなくなっているのかも知れないと思うと、たいへんな世の中になっているのだなと思いました。

大学生から社会人へ

高校を卒業するまで、親の言う通り、教師の言う通りに過ごしてきた自分にとって、今日の講義の内容は少し耳が痛かった。大学生になってもどこか、これからも親の言う通りに過ごしていくのだと思っていた自分に、大学生は社会で居所を見つける準備をする場なのだという話が、自分が思考停止でただ従っていれば楽だろうという気持ちで、ずっと過ごしていたことに気づかされた。

インディーズ時代(閉ざされたコミュニティ)は自分の好きな音楽を貫けば、それに共感した人間がファンとしてついてくる。しかし、プロになる(社会と関わりをもつ)と、社会の需要に応えなければ生き残ってはいけない。これは、自分が知らなかったことを知り、それを認めなければいけない、ということだと思う。

今回の講義は他の人が書いたメールを見たのがとても印象的だった。同じ大学生でも、自分ではこうは書けないだろうという内容があった。

昨年は楽単をきいてそればかり履修登録していました。ですが、いろいろな人に出会い、話していくうちに感化され今年から心を入れ替えました。今まで楽をしてきた分これから忙しくなるし大変になるので少し不安でしたが、苦労したほど何かを得ているという考え方ができれば頑張れます。とても励まされました。

参考図書