第15回 音楽とは何か?

講義

音楽とは何か?

音と音楽は、何が違うのか?音楽と言語は、何が違うのか?
最終回の講義では、これらの問いへの、私の答えを解説しました。

その前提の知識として、情報とは何か説明しました。情報は、確率と密接に関係しています。これだけでも、へー、だったと思いますが、それだけでなく、情報量は確率Pを使って式で表せてしまいます。シャノンの功績です。

情報量  I  =  log2(1/P)   ビット

情報というキーワードを軸に、音楽や言語を眺めると、とても見通しが良くなります。そして結局、音楽も漫才も小説も、人の心が動かされる仕組みは、全部一緒なのだということがわかります。期待や予測を作り、いい塩梅に、その期待を裏切るのです。これは、ちょうどいい量の情報を与える、ということです。


最後に総括をしました。初日の講義と同じスライドを出しましたが、4ヶ月を経て、この内容が、実感を持って理解できるようになっていたとしたら、私の目標は達成です。

世界にはまだまだ、みなさんの知らない世界がたくさんあります。そして、みなさんの知らない音楽がたくさんあります。

「無知の知」という最強の武器を手に、新しい音楽に貪欲に出逢い、新しい社会に勇気を持って飛び込んでいきましょう。

Q&A

今週のピックアップ

「言語は翻訳可能で音楽は翻訳不可能」という言葉を聞いて少し疑問に思ったのですが、詩は翻訳可能とも不可能ともいえないのではないでしょうか。詩を翻訳した場合、意味をほとんど差異なく訳すことはできても、その言語で書かれた特有の韻や言葉選びなどから受ける印象は少なからず変質してしまいます。言語と音楽にはっきりした境界があるというより、言語と音楽の間にグラデーションがあるように思います。(人文)

私は音楽と詩の違いが何なのかということが気になりました。詩は、言葉のみでつくられますが、読み手が詩を読む際の、リズムや抑揚を計算してつくられており、非常に音楽的だと思います。詩と音楽の決定的な違いは何なのか、もしくは、詩は音楽と言えるのか疑問に思いました。(人文)


詩には、音楽の要素がありますね。

ある作品があったとして、それが必ず「音楽」か「言語」のどちらかに明確に分類できるとは限りません。「音楽的な要素」と「言語的な要素」が同居することは、むしろ頻繁に起こります。歌詞のある曲も、もちろんそうですね。

そのうえで「音楽的な要素」とは何でしょう? 「言語的な要素」とは何でしょう? それを、はっきりさせようじゃありませんか。というのが、講義の趣旨でした。

「情報理論」に関する質問です。コイン投げで、「表表表」と「表裏表」では情報量は変わりませんが、「表裏表」の意外性は「表表表」よりも低いと感じます。(経)

素晴らしい質問です。この問題を突き詰めていくと、前に話したエントロピーの話に繋がってきます。なんと、物理学(統計力学)と情報理論が、ここでつながるのです。

この話をしようとすると、もう一回くらい講義を追加しないといけませんが、簡単にいうと、「表表表」や「裏裏裏」は目立つので特別感がある一方、「表裏表」「表裏裏」「裏表表」・・・などは、本当は個々が起こる確率は小さくで特別なのに、これらの異なる場合分けが全て一緒くたにくくられてしまうことで、見かけの特別感がなくなってしまうのです。

「情報は経験に依存する」という点で、今と昔では経験も違うはずなのに、どうしてモーツァルトやベートーヴェンなどは、今も好かれているのですか(法)

情報は経験に依存しますが、そもそも脳がどのように音を処理するかという基本的な仕組みが、音楽の受け取られかたの大枠を決めています。この脳の基本的な仕組みは、ヒトである以上みな根本的には同じです。

それにそもも、音楽についての経験も、今と昔で共通する部分もかなり多いはずです。例えば、調性音楽の基本的な仕組みは、ハイドンやモーツァルトの時代から変わりありません。

こうした普遍的な部分に訴えかける曲が、時代を超える名曲として何百年も生き残るのでしょう。

確かに、お笑いや音楽では期待を裏切られることで面白くなるというのは分かり、だからこそ、何度も同じお笑いや音楽を体験すると飽きが来るというのもわかりました。だからこそ、音楽の中には、何度聞いても飽きないという音楽が確かに存在しているのが矛盾に思えて、それでいて、疑問に思えます。(工)

お辞儀の和音(I-V-I)は、何回聞いても、お辞儀の感じがします。飽きるとか飽きないとか、そういう問題ではないですね。

「期待」や「予想」というのは、頭で考えて理性で理解できるものばかりでなく、脳の無意識のはたらとしての「期待」や「予想」も含まれています。自分でも気づかないうちに、脳が「期待」や「予想」をしているのです。こうした無意識の脳処理が、いかにありふれていて強力なものかは、例えば、盲点でみえないはずの絵を脳が勝手に予想して作っていることからも分かります。

こうした自動的な無意識の「期待」や「予想」は、脳の基本的なしくみにかかわるもので、そう簡単に変わるものではありません。

聞き手が受け取る情報量としてI=log₂(1/P)としてあらわすことが出来ていましたが、私はPのある出来事の生起確率を定めることは不可能だと思いますが、どのように求めるのでしょうか?(医) 情報量は経験や知識に依存して一定ではないのだったら、シャノンの式で情報量を一概に数字で表すことはできないのでは、と思いました。(工) など複数

サイコロを振るなどの問題では、Pは厳密に求められます。

しかし、例えば音楽である特定の和音の生起頻度などの確率 P を”正確に”求めるのは、現実的に不可能です。現象が複雑すぎるからです。

しかしそれでも、この和音が来る確率は高いとか低いとか、ある程度の予想がつき、脳は実際にそのような予想を立てながら、音楽を聴いています。

ですから、話のポイントは計算で厳密な数値を求めることにあるのでなく、そのようなモデルに当てはめて考えると、音楽の理解が進みますよ、ということです。

四コマ漫画の起承転結や、序破急もT-SD-D-TやT-D-Tのようにあてはめられるのでしょうか?(工)

中学生の時、音楽の授業で提示部、展開部、再現部で構成されているソナタ形式というのを学んだことを思い出し、確かにそのように作られていると思った。(医保)

その通りです。漫画の連載が、D(ドミナント)にあたる部分で終わると、落ち着かず、トニックを求めて、つい次も買ってしまいますね。

ソナタ形式では「提示部」で素材を提示し、「展開部」ではそれがが様々に変形され、激しい転調が多く、情報量が非常に多い部分です。それで「再現部」では、「ホームに帰ってきた感じ」がするのですね。

期待をつくって少し外すという音楽の仕組みに聴いているわたしたちは惹かれるということに納得しました。確かに、私は「きらきら星変奏曲」を聴く時に、少しずつずらしていく構成にストーリー性を感じ、段々と興味を持っていかれます。(農)

テーマを提示して、それを次々と変えていく「変奏曲」の形式は、まさに音楽の原理そのものを表していますね。多くの才能ある作曲家が変奏曲を得意としているのは、ある意味当然のことと思えます。

音と音楽の違いは、音に人為的なメッセージがあるかどうかだということだった。しかし作曲者がメッセージを込めているつもりでも聞き手にはそれが伝わっていなかったら音楽ではないのではないのか。またメッセージを込めたつもりがなくても聞き手がメッセージを読み取ったりしたらそれは音楽ではなく音になるのではないか。(医保)ほか、類似多数

音と音楽の違いは先生は音に人為的なメッセージが込められているかどうかと仰っていましたが、やはりメッセージが込められている以上、私は知覚する人がメッセージを感じとることや感想をもつことが音楽の重要な点だと思います。そのため、意図が込められた音の発信と音の知覚から自分なりの認識への変換の2つがあって初めて音楽として成り立つのではないかと考えました。(農)

そうですね。聞き手がいないと音楽でない、という考え方にも一理あります。このような意見は、とてもたくさん頂きました。

ただ、あなたが精一杯のメッセージを込めて作った音楽が、世界の誰にも理解されないからと言って、それは音楽でないと言い切れますか?

自分は言語と音楽の違いは文法のあるなしだと思いました。(工)

重要な指摘です。でも、音楽にも”文法”はあります。例えば、ドミナントのあとにはトニックが来るというルールは、個々の和音(=単語)が、特定の組み合わせによって新しい意味を持つ(=文になる)ための規則ですから、ある意味、文法のようなものです。

それはどうでしょうか・・・

waterwalkを聴いても、ジョン・ケージの意図は汲み取れなかった。この曲は楽譜があり、再現可能である。音の並びに規則がある。しかし、音楽は音を介したコミュニケーションである。ジョン・ケージの意図が読み取れない限りは、音楽とは言えないと思う。(人文)

「自分が理解できなかったので、自分にとって音楽ではない」というならばいいと思います。そういう意味で言っているのかもしれません。しかし、こんなものは音楽と認めない、というニュアンスを感じるので、あえて厳しいことを言います。

あなたは、ポルトガル語を理解できますか? 仮に理解できないとして、だからといって、ポルトガル語を言語として認めないというのは、おかしいですよね。単に、あなたが理解できないというだけのことです。

音楽も全く同じです。あなたが理解できないからといって、それを音楽ではないと言ってしまうことの乱暴さや不遜さが分かるでしょうか? この講義で伝えてきた、「自分の知らないことへのレスペクト」とは、正反対の考え方です。自分に分からない音楽もあるかも、ということを謙虚に受け入れることが、教養への第一歩ではないでしょうか。

そのほか

音楽の定義

どうしても冒頭のJohn CageのWater Walkが音楽だというのが分からなかったです。(農)

分からなくても、全く問題ありません。ただし、大切なのは、「これを音楽だと思う人もいるかもしれない」という想像力が働くことです。それだけで、世界への関わりかたが違ってきます。

私は、雨音にリズムがついているように感じると、それも音楽のように感じます。(経)

私も音楽のように感じることはありますよ。

しかし、「音楽のように感じる」のと、「音楽である」のは、違うことです。ウサギのように見える月の模様は、ウサギではありません。いくらオウムが言葉のような音声を発しても、それは言葉ではありません。雄大な景色を見て感動したとして、その景色は芸術ではありません。

音と音楽の違いについて、先生のご意見として「音に人為的なメッセージが込められているかどうか」という見解が示されていたが、AIの作った曲は音楽と言えるのでしょうか?(人文3)

AIでそれを作らせたのは人の人為的な行為ですよね。それに、AIで曲を作るには、AIが作ったもののなかから、人が良いと思ったものを選ぶという作業がどこかに必ず入ります。明らかに音楽です。


動物の鳴き声には伝えたいメッセージが込められていると思うのですが、先生は動物の鳴き声も音楽だと思いますか?(農2ほか)

講義の大前提として、音楽はヒトに特有のものだと考えています。つまり、「ヒトが」音を介してメッセージを伝えようとするものが音楽です。

ただ、受講生が言うように、動物も似たようなことをしていますね。すると、その動物には、その動物なりの音楽のかたちがあると考えることができるでしょう。つまり、「ヒトの音楽」とはまったく違うものとしてならば、「動物の音楽」というものを仮定することはできて、それはなかなか夢のある面白い考えかただと思います。

先生が「音楽は人が作って伝えようとしているものは全て音楽ととらえている」という考えは、参考図書で読んだ千住さんの考えと同じだと思いました。(教)

そうですね。だからこそ参考図書に挙げました(芸術とは何か 千住博が答える147の質問) 。ただ、音楽とは何か、芸術とは何か、というのは、一筋縄ではいかない問題です。

例えば、写真という芸術の一分野があります。

カメラをいじっていたサルが、たまたまシャッターを押し、たまたま自撮りができたとします。もちろん、サルには写真を撮る意図はありません。それでも、なかなかおもしろい写真が撮れます。そこで写真家が、そのような写真を取るために、あえて、カメラをサルのいるところに置きました。たくさんの面白い写真が撮れました。

これは芸術でしょうか? この写真の著作権は、誰にあるのでしょう? (サルの自撮り

情報理論

情報量の式に対数を用いる理由がよく分かりませんでした。(経2ほか)

シャノンの数式について、どうしてクロードさんはlogを使おうと思ったのでしょうか?(法)確率の掛け算が、情報量の足し算になるのが不思議だと思った(人文)

心理学の講義で説明したウェーバー・フェヒナーの法則では、心理量(感覚量)は「等差」数列的に増えるときには、物理量が「等比」数列的に増えている、という話をしました。このとき、物理量を心理量に変換する、つまり、掛け算を足し算に変換するのが、対数logでした。

一方で、サイコロを振るような事象が1回2回と足し算で「等差」数列的に試行数(情報量)が増えると、特定の目の並びが出る確率はPxPのように掛け算で「等比」数列的に変化します。ここで、試行数(情報量)という等差数列的な量と、確率という等比数列的な量を結びつけるのが、対数(log)です。ウェーバー・フェヒナーの法則で、感覚量(等差数列的)と物理量(等比数列的)を結びつけるのと同じ仕組みですね。

講義前半にコイン投げと2進数が同じ式であるという話題が出ましたが、仮に3面ダイスを振るとすれば3進数で表すのと同じ式が得られるのでしょうか?(人文)

その通りです!

毎年同じ時期に咲く桜に関することは意外性がないと思われるのに、毎年ニュースになるのはなぜなのだろうか。(工)

どの日に咲くのかは、毎年違います。そういった意味では、ニュースとしての価値があります。

ただ、確かに、社会にとって重要なこと(終戦記念日など)は、意外性が低くても報道されますね。これはニュースというより、社会の共通の土台トニックを守るのに必要なインフラのようなものだと、私は理解しています。

情報と音楽

「音楽とは?」という質問に対し、数式を使うような答えを出している方に会ったことはなかったのでびっくりしました。(人文)

私のオリジナルではないですし、学問の世界ではまったく珍しい考え方ではありません。

言語や音楽では、音を介して「何か」が伝わっています。この「何か」の正体を科学的に表現すれば、それは「情報」です。そして「情報」は、すでに皆さんが生まれる前から、「確率」をもとに数式で定式化されています。音楽と確率、というテーマでたくさんの本や論文があります。

期待をいい具合に裏切り、適度な情報量があるのが、いい音楽だというのに、とても納得しました。(多数)/良い塩梅で期待を裏切ると適度な情報量があるというのは、音楽だけでなく、多の場面でもそうだなと思いました(教)/ツンデレや、ギャップ萌えに通ずるものを感じた(数名)

期待が外れたところに、情報が生まれます。完全に期待通りの事が起こっても、情報量はゼロです。逆に、あまりに期待を外しすぎても(つまり情報量が多すぎても)、人はそれを理解できません。いい塩梅に期待を外し、適度な情報量がある時に、それを人は(脳は)好ましくて楽しいものとして受け入れます。音楽でも漫才でも、これと同じことが起こっています。

私には好きな曲がたくさんあるのですが、私はそれらの曲を何度聞いても盛り上がりの部分で鳥肌が立ったり、感動して泣きそうになったりします。もうその曲のどこでどうなるかなどの事はすべてわかっているはずで意外性などないはずなのに、このようになってしまうのはなぜですか。(工)

脳は予測との差異を情報として認識するということでしたが、そうすると音楽を聴いた経験があればあるほど音楽を聴いた時の情報量は減ってしまうのではないかと思います。何度聴いても鳥肌が立つという曲は誰にでもあると思うのですが、それはどうしてなのでしょうか。(医医1)

「脳による予測」には、いくつものレベルがあります。言語化できる予測は、脳の高次機能の予測です。それに対して、言語化できない無意識レベルの脳処理にも「予測」はあります。頭で分かっていても、無意識の自動的な処理で、予測からの逸脱に反応してしまうのです。

ボレロって情報量が少ない(あんまり裏切られない)というですか?・「もしかしたら次は全然違うフレーズが来るかもしれない」と構えていれば、そんなに驚かないということでしょうか(医保)

ラヴェルの「ボレロ」は、ひたすら同じ旋律を繰り返すだけという珍しいつくりの曲です。もちろん、それだけでは情報量がゼロでつまりません。

そこで、ラヴェルは、音色と音量を変えるのです。同じ旋律や伴奏を、次々と違う楽器で演奏し、そして少しずつ少しずつ音量を上げていくことで、まったく飽きさせず、つい最後まで聞きたくなってしまう魅力的な音楽になっています。

情報量の少ない音楽はつまらないとのことでしたが、私はそうは考えません。 例えばきゃりーぱみゅぱみゅの曲やコッペパンの歌のように同じ歌詞やフレーズを何度も繰り返すことで耳から離れない曲は多くの人に広く認知され愛される曲だと思います。(農)

きゃりーぱみゅぱみゅも、コッペパンの歌も、同じフレーズを繰り返しているようで、実は、背後の伴奏(楽器の種類やリズムや和音など)に変化をつけています。よーく聴いてみてください。

クラシックで同じようなメロディで微妙に音が違うことが多々あり、暗譜する時に「こんな少ししか変えないならいっそのこと同じにすれば覚えやすいのに」と昔不満を持っていたことを思い出しましたが、こういうことだったのかと衝撃を受けています。(医)

音楽のからくりが分かった今なら、当時とはまったく違う愛おしさで、それらの音符を弾くことでしょう。まさにその音符の違いにこそ、音楽で表現すべき内容がつまっているからです。

音楽の意外性は、臨時記号が大きな役割を担っていると思います。私の恩師は、「臨時記号はお洒落に!」とよく言っていました。通常の音符と同じように演奏しても良いと思いますが、臨時記号をより丁寧に演奏する、具体的には少し長くしたり圧をかけたりすることで音楽のアクセントとなり、味や深みを出す効果があると思っています。(教)

臨時記号(その小節だけに有効な一時的な#や♭)は、まさに外しによる変化で、意外性による情報の生成を狙ったものですね。

特別大きな音の場合を除いて、クラシックを聴いていると眠くなるのはなぜか疑問に思いました。(理)

クラシック音楽に含まれる情報を、情報として受け取っていないからです。

幼児向け音楽や学校で習う音楽は、年齢や学年によって難しさが違うと感じる。それには音楽理論や情報理論も関係しているのだろうか。(教)

童謡が単純なパターンの繰り返しで期待外れが少ないのは、幼児が意外性を理解しにくいからですか?(人文)

幼児は意外性を理解しにくいというより、そもそも複雑なパターンを認識する能力が、まだ発達していません。そのため、単純なパターンを使わないと規則性が認識できず、予測(期待)も生成できないのです。

芸術が作者の死後評価される現象は、見るものたちが変わり、情報量が変わったことが原因で起こるのでしょうか(農)

(私が好きな)マーラーという作曲家は、作品が難解すぎて、なかなか評価されませんでした。しかし彼は、「やがて、私の時代が来る」と言って、スタイルを貫きました。そして、今では非常に人気の高い作曲家になっています。当時の人には情報量が多すぎたものが、聴衆が変化することで、適度な情報量まで下がったということです。

情報とギャグ

アホになる数字のネタが私もすごく好きです。3でアホになって5で犬になるやつが1番好きです。(医保)

世界のナベアツの3の倍数と3の付く数字でアホになるギャグは、(講義で説明したように)数学的に解析すると非常によくできています。しかし、何度も聞いていると、つまらなくなりますよね。そこで、さらなる変化をつけるために、5で犬になったり、8で人探しをしたりしする派生版が生まれます。同じネタで笑わせるには、変化つけて予想を裏切り続ける不断の努力が必要です。

ダチョウ倶楽部の「押すなよ」も、ギャグが広く浸透して新鮮さがなくなっても、今度は、その浸透したことを利用して、そこからさらに変化をつけることで笑わすことができます。ギャグが、芸人と聴衆の相互作用による、高度なコミュニケーションであることが分かります。

その他

音楽と言語について、手話で歌詞を表現するというミュージックビデオがあります。耳が聞こえない人が、手話を通じて音楽を知るというものなのですが、「手話で表現する音楽」は音楽だといえますか?私がそのミュージックビデオを見たときは、耳が聞こえない人にも何らか情報が伝わっているように見えたので、その手話は音楽だと感じました。(農1)

「歌詞」を表現しているとすれば、それは言語かと思います。

歌詞のない音楽を手話で表すことは可能かどうか。これは、素晴らしい問いですね。どう思いますか?

私は親に買ってきた服などを見せると、よく「またこれが流行ってるんだ」という言葉を聞きました。私としては初めて見るものだし、新鮮なのでそんなことを言ってほしくなかったのですが、今になると分かります。韓流ブームが繰り返し起こったり、私が子どものころに流行っていたのと同じようなアニメが人気になったりというのを、生きていくうちに経験したからです。

いい塩梅に裏切り続けた結果、結局最初に戻ってくるという現象は、意外とどの世界でも通ずるあるあるなのかもしれないと思いました。(人文)

ほんと、その通りです。

クラシック音楽の歴史でも、「新古典主義」といってあらためて「古典」が見直されるように、同じようなことが起こっています。

ただ、一周して帰ってきたものは、完全には前のものと一致しません。やはり、少し違うんです。最近流行っているフレアパンツは、昔のベルボトムの再来ですが、フレア具合がだいぶマイルドて、昔のものとは少し違います。新古典主義の音楽も、昔の古典より鋭く冷たいです。

情報量が多すぎると良い音楽とは言えないとの話があったが、ファッションに置き換えると、奇抜すぎるものがショーなどに出て高く評価されたりします。(人文)

日常とファッションショーでは、基準が違うからです。この講義の言葉で言えば、トニックが違います。

ファッションショーのような服で大学に来る人はいませんが、大学に来るような服でファッションショーに出る人はいませんよね。

音楽とは?言語とは?

water walkの楽譜を見てこの絵が楽譜として許容されるのなら、どういうものまでが楽譜として考えることができるのか気になりました。(教1)

あの程度で驚いていてはいけません(笑)もっとすごい楽譜はいくらでもあります。

Avant-Garde Music Scores Go Graphic When Traditional Notes Aren't Enough | Nashville Classical Radio
As composers in the mid-20 th century began wild experiments in sound, the practice of traditional music notation became...

メールなど、文字のみで伝えるときに文面をよく考えなければならないのは、文字には韻律が含まれず、その文字だけでは読み取れないことがあるからだとわかった。(経、ほか何人か)

欠けたプロソディを補うのが、絵文字やスタンプといった非言語情報です。しかし、これにも限界がありますし、正式な文書にはもちろん使えません。やはり、国語力が大事です。

そして、教養こそが国語力の基礎です。読み手を想像して書き、書き手を想像して読む必要があるからです。

レヴィ・ストロースの言葉として「言語は翻訳可能だが音楽は翻訳が不可能」というものが紹介されていた。この「音楽は翻訳不可能」という部分だが、これは音楽だけではなく、芸術という分野において非常に重要な要素だと感じた。音楽や絵画などは、決して言語では表せないイマジネーションを表現したものだからこそ翻訳が不可能なのだと思う。そして翻訳が不可能だからこそ、受け取る側は必死に理解しようとし、ふと理解できた時には言語を理解する時とは全く異なる深い感動を覚えるのだと思った。(人文)

言葉では伝えられないものが伝わる。それが芸術の価値ですよね。

最後にいろいろ

最終回なので、人生相談的な質問にも少し答えます。

他者に敬意を持つことは大切だとは思うが、実際尊敬に値しない人は存在する訳で、むしろ他人を疑ってかかるくらいの方がよく相手のことを理解でき、自分の知識、つまり教養を深めることに繫がるのではないか。(理)

具体的にどういう例を指しているのがわかりませんのが、まあ、そういうこともあるでしょう。

一方で、私の言っていることが、まだきちんと伝わっていない気もします。

尊敬するに値するかどうかという判断が、そもそも自分の尺度です。その尺度が適切でない可能性は考えなくていいですか? あなたの尊敬する人は、誰からも必ず尊敬される人で、あなたの尊敬しない人は、誰からも絶対に尊敬されないのですか?

例えば、子供は、大人であるあなたより色々な意味で劣っていて、「尊敬」できないかもしれません。しかし、子供には子供であるからこその発想や考え方があり、面白かったり驚いたり勉強になったりすることがあります。

この講義全般で言えるのですが、定義されて初めて、そのものの本質というものに気づくことが出来た、ということが多かったです。私たちは、身の回りに関して、曖昧に終わらせていることも多いということに気づきました。(工1)

世の中の多くのすれ違いや誤解は、言葉の「定義」が共有されていないことが原因です。定義する、すなわち、言葉の意味する範囲を互いに共有することは、コミュニケーションの永遠の課題ではないでしょうか。

私は自分なりの解釈を作るのがとても苦手で、他の人の意見に納得して自分にもその意見を取り入れてしまいがちです。自分なりの解釈を持てるようになるには今後どのようにしていけばいいのか。(医保)

最初から、すべてが自分オリジナルの意見の人なんていません。良い意見と思ったら、どんどん取り入れればいいのです。そうすれば、その「取り入れ方の組み合わせ」に、自分らしさが出てきます。

20代、私はあこがれや目標になる人がいると、振る舞いや話し方がその人に似てきました。そしてしばらくすると、その対象が別の人にかわり、次はその人に似る。この繰り返しで、自分のオリジナルなスタイルが出来上がってきました。

もし仮にそこそこ親しい女性に告白するとき、今日習った手法で、興奮やウケを誘って流れで告白するのと、よく誰もが知っているようなシチュエーションパターンで、告白が来ると思われながらも告白するのだと、どちらの方がより成功しやすいでしょうか(工2)

どちらとも言えませんね。

なぜなら、どちらが良いかは相手の土台しだいだからです。

このように、この講義の教養の話は、完璧に、恋愛にも応用できます。まず相手の土台を理解して、つぎに自分を相手のトニックを合わせた上で、良い塩梅の情報量を与えるのです。理論的には。

私は、今塾でバイトをしているのですが、教えるときに生徒にインパクトを与えるために、重要なところは声色を変えたり、抑揚をつけたり、間を取ったりしています。また、一方的に教えるのではなく、生徒に考えさせる時間を取って、生徒が間違ったところに、生徒自身が意外性をもつことで、覚えやすくなるようにしています。もちろん、生徒の苦手な部分を把握することで、生徒の土台に立とうとしていますが、これ以外に、生徒の土台にたった良い教え方のコツはありますか?(医保)

よく工夫していて素晴らしいですね。

ただ、「自分が何をするか」という視点ばかりなのが、少し心配です。

「生徒がその時どうしているか」をよく観察しましょう。こちらを向いて話を聞いているか、目が輝いているか、話しのポイントでうなずいているか、適切な質問が来るかなど。

このように、生徒と先生が「つながっているサイン」があれば大丈夫。そうでない場合は、独りよがりの授業になっている可能性があります。

ホームページの他の学生のコメントを見て、授業の内容に対して異なる意見を持てる人がいていつもうらやましく思う。私も毎回、何か、先生の意見とは違う意見を持てないかと考えるのだが、いつも先生の仰っていたことに完全に納得させられてしまう。私は、自分の意見を予め持っていたとしても他人の意見を聞くとそちらが合っているように感じてしまいやすい。ぶれない自分の意見を持つにはどんなことが必要なのでしょうか。(工)

ぶれない意見の土台は、ぶれない「基準」です。迷ったら、基準にもどって考える。ふらふらしているなと思ったら、絶対に譲れない「自分の考えの根本的な基準」は何なのか、よく確認しましょう。私はその根本的な基準がブレないため、これだけ雑多な内容の講義でも、一貫性が出てくるのです。

期末レポートの課題が、特殊課題も合わせていくつもの選択肢があるのは、伊藤先生が生徒の土台を考えての事でしょうか。まだそんなに多くの講義を受けていないですが、他の講義では期末課題を選ぶことは出来なかったので疑問に思いました。(工1)

その通りです。ひとりひとり自分にあった土台で、課題に取り組んでほしいからです。

他者の土台を理解しようとする姿勢が教養に必要であるのは納得しました。しかし、他者の土台である個人的な経験などを、一切喋らない人が一定数います。そのような人に対してはどのようなアプローチをすればよいでしょうか。推測、察することが大事になってくるのでしょうか。(農)

なぜ喋らないのか、原因を考えてみたらどうですか。

喋らないというのは、そのこと自体が、ひとつの強いメッセージです。

この講義は今日で終わってしまいましたが、何か先生の考えをお聞きしたいときにはメールでお聞きしても良いですか。(教)

どうぞ、どうぞー