講義
前回の講義で、音は蝸牛で電気信号になりました。このように、脳は電気で情報を伝えているということを、たまに話してきましたが、それが単なる比喩だと思っている人が多いようです。
比喩ではありません!! 神経細胞は本当に電気(正確には電位)を発生しています。電位というとイメージが沸きにくいですが、具体的には、細胞の内側と外側でのプラス(+)とマイナス(−)のイオンの数(濃度)の不一致による電位差が、その正体です。細胞膜にある通路(チャンネル)を通じて細胞にイオンが出入りすると、細胞の内外のイオン濃度が変わり、瞬間的な電位の変動が生じます。これが、脳の電気信号です。この電位変動を「スパイク」と呼び、スパイクが生じることを「発火」と言います。
ひとつひとつの神経細胞は、発火するかしないかという、単純なはたらきしかしません。しかし大脳では、何百億個という数の神経細胞が、互いにシナプスを介して繋がって、膨大な回路(ネットワーク)を作ることで、言語や音楽のような複雑な脳機能が実現しています。不思議ですよね。
ただ、これは、点灯するかしないかの単純なLEDがたくさん集まった電光表示版が、全体として複雑な文字や図形を表すことができるのと、似ていなくもありません。単純なものも、たくさん集まれば、複雑な機能を持ち得るのですね。
フランスの作曲家ラヴェルは、晩年、脳の病気によって文字が書けなくなる「失語」や、楽譜が書けなくなる「失音楽」に苦しみました。有名な「ボレロ」や「ピアノ協奏曲ト長調」を作曲したころには、程度は軽いながらも、すでにこれらの症状が始まっていました。
ピアノ協奏曲ト長調
ホムンクルスで、なぜ舌の面積が大きいのか?という質問には、多くの人が回答を考えてくれました。いくつか紹介しておきます。どの考えが正しいでしょうか?
- 人間はしゃべる生き物なのでしゃべるときに毎回唇の筋肉を動かすし、唇の動きで言葉を発することができるので手足と同じくらい使われている体の部分なのではないかと思いました。加えて、唇を動かすことで顔の表情を作ることができるので唇は人とのコミュニケーションをとるのに大きな役割を果たしているのではないかと思いました。
- 水や食べ物といった生命活動に必要なものはすべて口から取り込んでおり、また味覚にとって重要な味蕾は舌に多くあるため、舌からも手と同じように多くの情報を得られるので、舌は脳の担当する割合が高いのかなと思いました。
- 舌は食べ物を食べると味を感じ、触れば物の形を感じ取り、噛むと痛身を感じるなど、ほかの部位より神経が多く通っているからなのではないかと考えました。
- 言葉をより上手く話せるようにするためである。人間は言葉を通して交流を行い、その作業には舌を器用に動かすことが必要である。舌が繊細な動きをし饒舌に話すことを可能とするために、神経が舌に集まったのではないかと考えた。
- 食べる時のこともあるかもしれませんが一番は話すことに関係していると思います。話すときは口の形や舌をさまざまに動かすことによって発話しているので、人は必然的にその分野を発達させる必要があったのだと思いました。
- 食べ物を飲み込むときに形を変え、飲み込む助けをしている。他には、発音する際に重要であると思う。
- 骨がないことによって、様々な動きが舌は可能であるからではないかと思いました。
Q&A
今週のピックアップ
脳機能の三区分として、入力・処理・出力と習ったが、ふと何かをしようと考えて行動する時、この「何かをしよう」と考えるのは入力ですか?(工)
素晴らしい質問です。とくにきっかけもなく、つまり何の外部入力もなく、ふと思い立ってTVをつけるようなことがありますよね。このとき、脳では一体何が起こっているのでしょう?
実は、何もしていないような時でも、脳の神経細胞は常に活動しています。
このランダムな雑音のような背景活動が、何らかのきっかけで大きくなって閾値を超えると、それがトリガーになって行動が発現するのだろうと、考えられています。この場合、「自分の意思」ってどこにあるんでしょうね? 私たちは、こんなことについての研究もしていますよ。
失音楽の例で「曲を聴いてもわからない、認識できない」とありましたが、同様に絵画や彫刻などの美術を認識できない失美術的なものもあるのでしょうか。曲を認識できないのは曲風やリズム、調の違いを認識できないためだと考えますが、美術でも、何を表現しているのか、色合い、形などの判別が出来なくなるということもあるように感じます。(法)
原理的には、あるでしょう。しかし、単に視覚的に複雑な図形が理解できないことと、その芸術的な価値が理解できないことを区別するのは難しそうです。ただ、これと同じ難しさは、音楽にも当てはまりますね。
スポーツの世界の話や、一部の芸のプロフェッショナル、ゲーマーの最上位層は、大脳の活動を反射かそれに限りなく近い速度で行っている例ではないでしょうか。(人文1)
複雑な処理をするごとに働く脳の部位が脊髄・延髄から脳(小脳、中脳)へ、脳(小脳、中脳)から脳(大脳)へ変化するということは分かったのですが、その処理に慣れていくことで働く脳の部位が変化することはあるのかが気になりました。車の運転などは教習所に通っていたころと今では脳にかかる負担が目に見えて変化しているので、処理に慣れていくことで働く脳の部位が変化するのではないかと考えました。(理2)
自転車をこぐような運動は、最初は大脳が必要ですが、学習が進むと小脳(や大脳の奥深くの構造←今日の講義では触れなかった脳部位です)だけで実現可能になります。また、初心者の練習の段階では大脳の機能である”意識的な注意”が必要な運動も、学習が進むと、”意識的な注意”が必要でない大脳の機能に置き換わることがあります。このように、学習によって、担当する脳部位はダイナミックに変化します。
高校の生物基礎で、全ての遺伝子が常に働いているのではなく、特定の細胞や特定の時期に働くということを習いましたが、脳の一部しか働いていないというのもそのためだと思いました。(人文)
脳は一部が働いて他が休んでいることが大切なのだと聞いたとき、遺伝子発現についての特集のテレビ番組でも同じことを言っていたのを思い出した。よく言われる『メリハリをつける』ということも似た考え方に思う。このような考え方は生きる上で大切なことだと気づいたので、今後の生活で今まで以上に意識していきたい。(医保)
遺伝子も、まさにそうですね。
ある特定の機能が働くということは、それと違う機能は働いていない、ということです。全てが同時に機能しては、結局、何の機能も果たさないことになってしまいます。
授業中でシナプスの結合の仕方が常に変わってゆくから「昨日と今日であなたはちがう」のだと先生からご指摘がありました。これを聞いて「テセウスの船」のパラドクスを思い出しました。船が少しずつ船のパーツをとり変えながら航海して、最終的に全てのパーツが変わった状態で航海を終えたとき、それははじめの船と同じ船なのだろうか──そのような問いのことです。これは人間でも同じことがいえます。人間は細胞が常に入れ替わってゆき、さらにニューロンの結びつき方がどんどん変わってゆくので考え方も変わってゆく。したがって心理的にも物質的にも、「わたし」は「わたし」でなくなってゆくと言えます。このような事実を考えると「確固とした自分はあるのか」「『わたし』とは何なのか」のような漠然とした問いにぶつかります。(人文1)
お母さんのお腹のなかで脳ができて以来ずっと、脳は、変化を続けています。すなわち、神経細胞と神経細胞のつながりが変化しています。
これは、今のつながりを少しだけ変える、という変化の積み重ねです。だから、今現在のあなたの神経細胞のつながりは、これまでのあなたの過去の履歴のすべてを反映しています。そうしてできあがった「神経細胞のつながり方」こそが、「わたし」です。
脳を強制的に全部動かしてもたくさんの情報を処理することはできませんが、私たちは「集中」することで情報をより効率的に処理することができます。これも脳にそういった働きをする場所があるからなのでしょうか?(工1)
「集中」とはある特定の機能を働かせると同時に、それ以外の機能を抑えることでもあります。LEDの例で、脳には働いているところと、働いてないところがあることを説明しました。そのメリハリをつけるのが「集中」です。
チャットGPTなどの対話型AI にも共通して言えることですが、なぜ二進数的な電気、デジタル信号から言語、思考といった抽象的なものを生成することができるのですか。(工1)
chatGPTは、大規模言語モデルの一種です。大規模言語モデルというのは、これまで人間が記した膨大な文書をコンピュータ(ニューラルネットワーク)が学習することで、「この単語の次はこの単語が来る」という予測をするものです。つまり、chatGPTは、このような指示や質問(プロプント)にはこの様な単語が続くとう、単語と単語のつながりを高精度で推定しているだけで、その結果をみて我々は、コンピュータが”思考”をしているように感じます。
ヒトの脳もそれと同じと言い切れるのどうか、まだよく分かっていません。
その他
神経細胞(ニューロン)
人間の脳に電気がはしっても感電しないのは何故ですか?(医保)
やはり神経には「電位」が必要なのだなということはわかったのですが神経に必要な電気と静電気、電柱を流れる電気、雷は全て同じ電気なのでしょうか。単純に電力としての大きさが異なるだけなのでしょうか。電気が脳内に使われているにも関わらず雷に打たれると死に至るのは本当に単純に電力が違うだけだからなのかなとモヤモヤしました。(理)
神経細胞の電位は、細胞膜の内側と外側の間に生じています。ですから、流れる電流も、ひとつの神経細胞の細胞膜の、外から中へ、あるいは中から外へ、ということになります。
つまり、神経細胞から神経細胞へ、つぎつぎと電流が流れていくわけではありません。電位と電流の発生する「場所」が、つぎつぎと移動していくことで、情報を伝えるのです。
電子回路を電流が流れるのとは仕組みが違いますので、誤解のないように。
発火というのは、実際にどのようなことを伝えるのでしょうか。痛みを伝えたりするのでしょうか。(経1)
蝸牛につながった神経が発火すれば、それは耳に音波が届いたことを伝えます。眼につながった神経が発火すれば、網膜に光が届いたことを伝えます。発火が何を伝えるかは、その発火がおこっている神経細胞が、どこからどこに繋がっているかで決まります。
脳の基礎
なぜ脳に直接痛みを与えても何も感じないのか。(多数)
逆に、なぜ、皮膚などは痛みを感じるのでしょう?
外界の危険から身を守るためですよね。そのために、痛みを感じるための専用の受容器(センサー)を備えています。しかし、丈夫な頭蓋骨に守られている脳組織は、そのような危険に備える必要がありません。
LED電光掲示板のように、使っているところと使っていないところがあることで、文字を表示するのと同じく、脳も使っているところと使っていないところがあることで機能している、という説明がとても分かりやすかった(多数)
音楽の休符も同じ、という感想が受講生からありました。まさにその通りです。ピアノには88鍵ありますが、それを同時に全て鳴らせば最高の音楽になるかといえば、もちろん、そうではないですよね。
ピアノを弾くときに目をつぶって弾くと感覚が研ぎ澄まされたり、集中できることがあるが、脳の使う部分を減らしたからなのだろうか?
その通りだと思います。
なぜ視覚野は大脳の中でも1番後頭部側にあるのでしょうか?感覚器官である目は大脳でいう前頭葉側にあるのにわざわざ遠い後頭葉にあるのには意味があるのでしょうか?(医保)
大脳の聴覚野が頭のすぐ横にあるという点において、聴覚野がその位置にあることによって人間の耳が頭のすぐ横にあるのか、耳が頭のすぐ横についているから聴覚野が頭のすぐ横にあるのか、どちらなのでしょうか。(教)
誤解があるようです。目からの入力も、耳からの入力も、大脳に直接届くのではなく、途中で、中脳や視床という、脳の中心部の構造を経由します。どちみち、脳の真ん中あたりを通るのです。ですから、皆さんが思うほどには、耳と聴覚野が近いわけでなく、また眼と視覚野が(無駄に)遠いわけでもありません。
シャワーで尿意(パブロフの犬)
シャワーを浴びるどころか脱衣所で服を脱ぎ始めた時点で尿意に襲われて困っていたので我慢して脳に新しい学習をさせようと思いました。(経)
条件付けの話で出てきたお風呂でシャワーを浴びているときに尿意を催して出してしまうというのは私も同じ状態なので、同じような人もいるんだなと思いました。私はトイレの水道代が浮くし、特にお風呂でして悪いことは思いつかないのでまだ直さないでおきます。(理)
ノーコメント・・・笑
言語と脳(失語)
失語の話を聞いて、私の兄が幼い頃に吃音症だったことを思い出しました。ブローカ野は話す機能関わっていると習ったので、そこに何か問題が起こっているのではと考えて調べてみたら、吃音症は、左前頭部にあるブローカ野の体積がやや小さく、言語中枢間を結ぶ神経線維束が乱れている事が多いみたいで、納得できました。(医保)
私は普段は左利きですが、12年間、書道の時だけ右手を使っていました。その結果、吃音がでてしまうことがありますが、これはウェルニッケ野がどうなっているのでしょう?(人文)
吃音(きつおん)の原因は、まだよく分かっていないと思いますが、言葉を発する運動機能の障害なので、運動野との関係が深いでしょう。
発声には、喉や舌など発声器官の巧緻な運動の制御が必要です。右利きであれば、それは通常、主として左側の運動野が行います。左利きだと、左側の運動野か、右側の運動野か、どちらかです。
問題は、左の運動野と右の運動野が、どちらも同程度に関与してしまう場合です。船頭多くして船山に上る、という言葉がありますが、舌などの発声器官が、いったい左右のどちらからの司令に従ったらいいのか分からなくなる、そういう混乱が、吃音では起こっているのかもしれません(個人的な想像で、正しいかどうかはわかりません)。
失語は何の前触れもなく急に発症するのか?(工)
脳卒中(脳内で出血したり、脳の血管が詰まったりすること)などにより、急に発症する場合もあれば、脳が何年もかけてゆっくりと病気なる中で徐々に発症する場合もあります。作曲家ラヴェルは後者のケースです。
失語症では書くことや読むこと失語や失音楽が存在しているのであれば、失運動という症状もあり得る話なのか疑問に思いました。障害や感覚麻痺とは関係なく、運動を司る脳の一部分が壊死したり損傷したりすることで起きることはあるのかなと思いました。(経)
あります。そういう障害には、「失行」という名前がついています。手や腕の運動自体は問題がないのに、例えば、服が着れなくなったりします。
失語症とはそもそも脳の話すことを担う部分が損傷しているから起こることであるのになぜ回復するのでしょうか。損傷ということは物理的に脳の一部が壊れているのに学習できるということは残っている神経細胞で学習しているのでしょうか、それとも神経細胞は再生するのでしょうか。(人文)
ブローカ失語症例の若い女性がリハビリを重ねて症状に回復が見られたと思うのですが、
リハビリを重ねたことによって脳の損傷が少しずつ回復したのでしょうか、まず脳の損傷は治るのでしょうか?。(工2)
脳の壊れた部分は、元どおりにはなりません。壊れていない部分が、その機能を肩代わりするように再構築されます。肩代わりした部分がもともと行なっていた仕事は、目立った影響を受けません。それだけ、「のりしろ」があるからです。そもそも、こうした「のりしろ」がなければ、脳は新しいことを学習できませんよね。例えば、新しく積分を覚えたからといって、それと引き換えに、足し算ができなくなることはありません。
そして、年齢が若いほうが、この「のりしろ」は大きく、脳が変化する柔軟性が高いのです。
サラさん:脳卒中1年後
サラさん:脳卒中5年後
音楽と脳(失音楽)
失音楽の方の脳の障害のある部位が、失語症の方の障害のある部位と似通っているということは音楽と言語に脳機能として密接な関わりがあるという認識で良いのでしょうか。(教2)
例に出てきた「失音楽」の人々は、音楽だけでなく言語機能などにも障害があったが、音楽機能だけに障害があらわれることもあるのだろうか。私は、音楽は音、言語などさまざまな要素が合わさって「音楽」になると思うので、必ず他の機能にも支障が出てしまうと考える。(人文)
良いことに気がつきましたね。そうです、脳の機能から見ると、音楽と言語は似たところがあります。とすると、音楽とは何でしょう? 言語とは何でしょう? 次々と疑問が湧いてきます。
一般的に言われる音痴というのは失音楽と何が違うのか疑問に思った。?(経3ほか)
失音楽の中に、『絶対音感を失う』とありましたが、私は生まれつき絶対音感がないのですが、失音楽なのでしょうか。(工1)
私自身楽譜を読めなかったり、拍子がわからなかったりするのですがこれは失音症に入るのでしょうか?単に音楽の才能がないだけでしょうか?音楽の才能がない人と失音楽症の人を区別することは難しくないですか?(教1)
失音楽とは、その人が持っている音楽的能力(例えば楽譜を読むなど)が、脳の病気で失われることです。ですから、もともと楽譜が読めない人を指して、失音楽とは言いません。このように、音楽能力は、そもそも発症前の個人差が大きいので、何を持って失音楽と呼ぶか、決めにくい場合も多くなります。例えば、失音楽になった音楽家のほうが、とくに障害のない一般人より、音楽機能が優れていることもあるのです。そしてこのことが失音楽の研究を難しくしています。
いわゆる「音痴」とは、生まれつき、音程やリズムを認知したり、歌ったりすることが極端に苦手な人のことを指します。これは、「先天性失音楽」と呼ばれ、なぜそのようなことが起こるのか研究を進めている人たちもいます。
その他
小学生の頃に、「脳は使えば使うほど(物事を深く考えれば考えるほど)、脳がシワシワになる」といった話を聞いたことがあるのですが、これは本当でしょうか?(理3)
大嘘です。シワの数や形は、(わずかな個人差はありますが)みんなだいたい同じで、学習で増えたり減ったりすることはありません。
最近の土曜の夜や日曜の朝は、音と音楽のページを見て、今回も私の書いた感想等が採用されていないと落ち込むことが多かったです。(人文)
全ての良い質問が、HPで紹介されるとは限りません。なぜなら、皆と共有した方がいいかという観点で選んでいるので、例えば、あまりにも高度な質問は、一部の人にしか分からないだろうから載せないとこともあります。
載るかどうかにとらわれず、自分なりにしっかり考えてくださいね。No pain, no gain。
絶対音感というのは後天的な能力なのですか?私は先天的な能力だと思っていたのですが、もうすぐ成人をむかえる今からでも練習して身につくものなのでしょうか。(農)
絶対音感は、学習で獲得される能力です。そして、シナプスの刈り込みが大量に起こる時期に、学習する必要があります。小学校に入ってからでは、すでに遅いです。逆に、小学校に上がる前に適切な訓練をすれば、誰にでも絶対音感はつくと言われています。
この講義の特設サイトで受講した他の学生のコメントを読んでいると、同じ講義を聴講してもこんなにも違うことを考えているのか!と思うことが多々あります。私たち一人ひとりがそれぞれ異なる思考回路を持っているからなのだなとシナプスの話を聞いて納得しました。また、自分の持つ考えや自分という人間についてを知るためにも人と話すことが重要なのだと思いました。先生があのサイトを開設しているのも「教養」のためなんですね。(工3)
学部・学年関係ないほかの人たちの深い感想を読んで自分がいかに中身のないことしか考えられていなかったかを思い知った。この授業という他人からの評価がなければ気づくことはなかったと思う。(医医1)
このHPに載せてあるのはすべて、みなさんと同じ新潟大学の学生の感想や質問です。ある意味とても均質な集団です。それでも、考え方にこれほどのバライティーがあるのです。そのことをみんなに知って欲しくて、このサイトを作っています。
先生は参考図書を数多く挙げられますが、そういった本はどうやって探しているんですか?
(1)本屋でぶらぶらと眺めて見つけます。(2)新聞や雑誌の書評欄を見て面白そうなものをメモります(写真を撮っておきます)。(3)普段から友達に面白い本を紹介したりしていると、友達が別の面白い本を紹介してくれます。(4)アマゾンで本を買うと似たようなテーマの本が勝手に画面に出てきますので一通り眺めます。永遠に芋づる式に出てきます。(5)気に入った著者がいたら、その人の他の作品も読んでみます。などでしょうか。